注※タイトルを『分かりまくる!vol.3 見守り保育?ケンカ?保育者に求められるもの?そんな疑問を森のようちえん園長が徹底解説』から変更しております。
「見守る保育ってなにをどこまで見守るの?」
「ケンカも見守るの?」
「保育者はなにもしないの?」
どうも、里山保育やまぼうし園長のたける父ちゃんです。
今回のテーマは『見守る保育』
いったい、なにをどう見守るのか?
奥が深い、見守る保育の世界。
その一端でも示せればと思います。
それでは、はじまり、はじまり〜。
ん? ああ、そうなんです。
今日もひとりできちゃいました。
(やっぱり、そうだ。たえ子さんは、私に会いに・・・)
い、いやぁ。なんだか今日も門口さん、一人で来るような気がして・・・
それなら、コーヒーでも飲みながらのほうがいいかなぁなんて。
わぁ、嬉しい。
私、コーヒー大好きなんです。
ありがとうございます。
いえいえ、喜んでもらえてよかったです。
さぁさぁ、座ってください。
はい、それじゃあ遠慮なく。
今日は『見守る保育』について教えてほしいんですが。
はいはい、見守り保育ですね。
分かりました。
それでは、早速お話しましょう!
見守る保育とはなにか
森のようちえんの保育の特徴のひとつが見守る保育です。
私はこの見守る保育が、一番重要だと考えています。
なぜなら、見守る中で大切にしたい事が、保育で大切にしたい事そのものだからです。
その他の野外保育、自由保育、縦割り保育などは、見守る保育をするのに適しているからするのです。
たとえば前回の野外保育編であげた自然の中で遊ぶ4つのメリットの内の2つ。
この2つができるということは、たとえばケンカ中に、「大声を出しちゃダメ」と言わなくてもいいし、自分たちで距離がとれるので、保育者が子どもを引き離す機会もほぼなくなります。
それだけ、より見守られるのです。
それほど大切な見守る保育。
言葉にするとシンプルですが、実際におこなおうとすると、とても難しいんです。
今回も私の実体験を踏まえて、話していきたいと思います。
注意
あくまで、里山保育やまぼうしとしての考え方です。
森のようちえん全体が同じ意見でないことをご了承ください。
どうして見守るのか
まず、どうして見守るのかと言うと、見守った先の子どもたちが生き生きしているように思えたからです。
前回の野外保育もそうですが、私の場合、全ては直感から始まります。
見守る保育の考えを知った時、こういう保育がしたい!と瞬時に思いました。
だから、まずやってみる。
そして、やっていく中で、見守る保育をする意義を見いだしてきました。
- 工作がうまくできなくて、試行錯誤を繰り返した末に、ようやく納得いくものができた時の満足そうな顔
- 激しいケンカをした数秒後に、ケンカ相手と顔寄せ合ってカマキリを見て笑い合う二人の男子
- 泣いて泣いて泣きまくったあとに、すっきりした顔をして、遊びに戻っていく女の子
こうした子どもたちの姿を見ると、見守ってよかったなぁと思います。
もちろん、毎回、こんな感動的な姿があるわけではありません。
しかし、そうした時も子どもたちの内面では、こうした象徴的な姿につながるものが芽生え、育っているのかなと思ったりします。
なぜ生き生きして見えるのか
どうして見守ると、子どもたちが生き生きするのか。
私なりに考えてみました。
子どもが生き生きする理由
- 自分のちからでやりとげたと本人が感じるから
- 感情を出し切るから
- 自分で決めるから
ひとつずつ見ていきましょう。
自分のちからでやりとげたと本人が感じるから
工作にしろ、泥団子作りにしろ、自分ひとりでできたと感じるから、満足度が違います。
ここでキモなのは、本人がそう感じるということです。
紙を切ってトンボを作っていた時のことです。
年長女子は、イメージ通りのトンボが切れなくて、大泣きしながらも何度も挑戦していました。
しばらく見守っていましたが、見かねた保育者が「一緒にやろうか?」と声をかけました。
しかし、彼女は「自分でやる!」と手伝いを拒否。
その後も、切り続けて、ようやく納得のいくトンボが完成しました。
私から見ると、実際のトンボとは少し違うように思えましたが、本人はやりとげた喜びでいっぱいといった感じでした。
一方、年少彼は保育者がつくったトンボに色を塗って、大満足。
表裏リバーシブルで色を塗ったのがお気に入りらしく、大切に持って帰りました。
以上のように、何に満足するのか、どこで納得するのかは本人次第。
そして、その度合は本人にしか決められません。
だから、周りがとやかく言うのではなく、本人が納得できるまで見守るのがいいと思うのです。
感情を出し切るから
喜びや楽しみの感情は、いくら出しても止められることはめったにありません。
しかし、怒りや悲しみの感情は止められがちです。
怒っていても泣いていても、「どうしたの?」と声をかけられます。
もちろんそうした優しさにふれることが悪いわけではありません。
でも、負の感情を思いっきり発散できる場があってもいいのではないでしょうか。
やまぼうしでは、ケンカも見守ります。
怒りの感情を出し切った子どもたちは、さっきまでケンカしていたのがウソのように、すぐに一緒に遊び始めます。
最後までケンカをやり通して、感情を出し切るからでしょう。
経験から言うと、こうして見守ったケンカは必ず仲直りがセットになっています。
しかも、あっという間の仲直りです。
さらに、二人の絆が深まったようにも感じます。
逆に、中途半端に止められたケンカは後を引きます。
まだ子どもたちの中に消化されないものがあるからでしょう。
自分で決めるから
大人が口出ししないということは、子どもたちが自分で決めるということです。
上の2つも、どこで納得するのかを自分で決め、いつケンカを終えるのかを子どもたちが決めています。
泣いて泣いて、感情を発散しつくして、遊びに戻るタイミングも自分で決めます。
つまり、何を見守っているのかと言うと、子どもたちが自分で決めるのを見守っているのです。
そして、なぜ自分で決めるのを見守るのかと言うと、そのほうが、子どもが生き生きしているように思えるからなんですね。
なにをどこまで見守るのか
そうは言っても、見守らない時もあります。
それは以下の二点です。
安全管理の面から見守らない
たとえば、春から秋にかけて草が生い茂る中に子どもが入っていく。
これを子どもの自主性を重んじる、として見守るのかどうか。
やまぼうしでは見守りません。
理由はマムシにかまれるリスクが非常に高いからです。
安全管理編で詳述しますが、安全管理では、学びのリスクとハザードという考え方があります。
学びのリスクとは
その団体の目的を達成するために必要なリスク。
包丁で指を切る、斜面を滑って擦り傷をおう、など。
子どもたちが自分で決め、自分でやりとげたと思える活動なら、多少の危険があっても見守る。
しかし、危険度が高い場合は下げる対応が必要。
たとえば、月齢が低く、一人で包丁を使わせるにはまだ怖いと思うなら、保育者が補助に入る。
また、危険度が下げられない場合は、その活動自体を終える時もある。
のこぎりを使うが、子どもがよそ見をする、のこぎりを振り上げるなどを繰り返し、声をかけても改善されない場合は、その作業自体を終了する。
ハザードとは
その団体の目的を達成するのに関係のないリスク。
マムシにかまれるという事は、子どもが自分で決め、自分でやりとげたと感じる事とは関係のない、突発的な事故。
ハザードはできる限り排除する。
草むらの中では枝などでマムシがいないか確認する、など危険度を下げるための対応ではなく、草むらには入らないという禁止で、マムシにかまれるリスクを極力排除する。
避けられない場合は、そのフィールドで遊ぶのをやめる選択もある。
やまぼうしでも、川で遊んでいて、小石をどけたらマムシがいたことがあった。
これは避けきれないハザードと判断し、それ以来その川へは行っていない。
保育者の判断から見守らない
こちらは、また意味合いが違います。
危険だからというのではなく、保育者が口を出す、手助けするなど、介入することを意味します。
日々の中で、どこまで見守るべきなのか判断に悩むことは多々あります。
やまぼうしでは基本的に、それぞれの保育者にその判断をゆだねています。
理由は、一人ひとりの保育者は性格や考え方、ものごとの受け取り方が違うからです。
以下に詳しく見ていきましょう。
見守る側に求められるもの
保育者はただ見ていればいいから楽ではないか、と思う方がいるかもしれません。
しかし、そんなに甘いものではないのです。
私たち保育者に求められるハードルは高く、私などは当然まだまだ未熟者で、そう言うのでさえ、おこがましいと言うレベルです。
では何を求められるのかと言うと、ひとことで言えば、うつわのデカさです。
受け幅の広い、ふところの深い人物が理想像です。
実際、全国フォーラムなどで長年活動されている方にお会いすると、その器の大きさ、人柄に感動することが多々あります。
やまぼうしを始めた頃
たとえば、ケンカを見守っていると、心がざわつきます。
特に年上の子が年下の子に、大人から見れば意地悪だなと思う事をしているのを見ると、「意地悪だなぁ」「助けてあげたいなぁ」「もうやめてあげて」という気持ちが湧いてきます。
やまぼうしを始めた頃の私は、こうした感情が湧いてくると、冷静にはいられなくなっていました。
感情にこころを揺さぶられて、頭では見守りたいと思っているのに、体と口が勝手に動いていました。
そして、あとになって、はたしてあの対応で良かったのだろうかと反省する日々でした。
しかし、そうした経験と反省を繰り返していくと、動揺しにくくなってきます。
感覚がマヒするのではなく、耐性がついてくるといった感じです。
感情は殺さなくていい
しかし、経験を積み、ある程度見守られるようになったとしても、当然そうした感情がなくなるわけではありません。
そして、そうした感情を殺す必要もありません。
見守ろうと思い、自分の感情を受け止め、それでもやっぱりここは介入したいと思えば、介入してもいいのです。
言いたい事があれば言えばいいし、助けてあげたいと思えば助ければいいし、子どもに何かされて嫌だなと思えば「嫌だからやめてほしい」と言えばいいのです。
なぜなら、私たちも保育の場の一員だからです。
個性の尊重
私たちは透明人間ではなく、ひとりの人間として子どもたちの前にいます。
当然ながら感情もあり、意思もあります。
見守るためにそうしたものを押し殺す必要があるのならば、私はそんな窮屈な保育はしたくありません。
子どもたちの自主性を重んじるということは、言い換えれば、それぞれの個性を尊重するということです。
そうした理念を掲げている団体が、保育者の個性を尊重しないのは矛盾しています。
心理学者の河合隼雄さんだったか、ユングだったかは忘れましたが、こんな言葉を覚えています。
“個性的な子どもを育てるには、育てる大人が個性的に生きなければならない”
そのとおりだと思います。
なによりも、感情を殺して息苦しそうに見守る大人と、個性を発揮して楽しそうに過ごしている大人。
どちらが子どもにとっていい影響を与えるかは一目瞭然でしょう。
自分と向き合う
しかし、保育者一人ひとりが自分で判断して見守るという行為は、実際にはとても大変です。
人間はそれぞれ、こころが揺さぶられるポイントがあります。
ひとつではなく、複数あるかもしれません。
ポイントによって、強弱があります。
私自身で言えば、甘えたな子を見ると、こころが揺さぶられてしまいます。
こうした時に、その子に原因があるのではなく、私に原因があると考えます。
それはもしかしたら、私自身の中に甘えたいけど甘えられなかった過去があるのかもしれません。
しかし思い返してみても、私の家庭はどちらかと言えば、家族仲むつまじく、母親にもよく育ててもらったと思いますし、トラウマになるような出来事も思い当たりません。
おそらく、そういうことではなく、いわゆる平和に生きてきた人でも、どんな人でも、そうしたポイントが存在するのだと思います。
それは記憶にも残らない、それ自体は日常のささいなこと、当たり前のことなのでしょうが、どういうわけか心に引っかかり、揺さぶられるポイントになるのだと思います。
実際のプロセス
自分に原因があるならば、それと向き合わなければいけません。
しかし、こうすればこうなるという取り扱い説明書があるわけではありません。
だから抽象的な言葉になってしまいますが、いちおうの手順を示してみます。
自分と向き合うには
- 自分の揺さぶられるポイントを自覚する。
- 自分の感情を受け止める。感情を否定するのではなく、自分の中で起こっている感情を受け入れる感じ。
- あとはひたすらその繰り返し。
ほぼほぼ参考にならないと思いますが、実際にこんな感じなのです。
私が一番苦しかったのは、やまぼうしを始めた頃、自分の長女に対してでした。
我が子の半分は私のDNAだからか、自分の嫌な部分、弱い部分が重なって見えるらしく、揺さぶられ方が半端なかったです。
必要以上にイライラしてしまったり、見守られなかったり。
なんとかしようと思うけれど、どうしたらいいのかわからない。
それはもう泥沼にはまったのをひたすらにもがいて抜け出そうとする感じでした。
何回も何回もこころを揺さぶられて、反省して、揺さぶられて。
そうしているうちに、いつの間にか前より揺さぶられていない自分に気づくのです。
少し客観的に我が子と自分の感情を見られるようになっているといった感じでしょうか。
先の見えない、つらい苦しい作業でした。
しかしこの作業を通して、自分を知っていく事で、見守るための精神力が鍛えられ、見守る保育の質が向上するのだと思います。
チームとして
保育者がそれぞれの判断で子どもたちと関わるからこそ、保育者間での話し合いが大切になってきます。
話し合う目的は以下の三点です。
話し合う目的
- 大まかな共通認識を得るため
- 保育者同士がお互いを尊重できるようにするため
- 他の人の考え方やものの見方を知るため
大まかな共通認識を得るため
それぞれの保育者が自分で判断して保育すると言っても、100%納得して、こうだ!と決定できるものではありません。
また、そのように自信満々なのも、自己満足におちいりそうです。
日々の保育の中で、悩むことなど山ほどあります。
そうした悩みを保育者間で話し合うことで、さまざまな意見が出て、「それじゃあ、そういう時はこうしてみよう」という共通認識ができます。
保育に客観的な絶対的正解はないと思っています。
できることは、こうしてお互いの意見を出しあって、すり合わせて、着地点を見つけることです。
そして共通認識をベースに、個々人で保育していく。
その実践から出た意見や疑問を、また話し合うことで、共通認識の精度がより上がっていくのです。
保育者同士がお互いを尊重できるようにするため
個々人で判断して保育をしていると、他の保育者の関わり方を見て、自分だったらこうするのにな、と気持ちがザワつくことがあります。
これも実は見守る保育のひとつなんです。
ザワつくのは、その保育者の関わり方に問題があるのではなく、自分の中に原因がある。
こう書くと、もう上記の『自分と向き合う』と同じですね。
実践できているかは別にして、子どもを尊重して見守る、と頭では理解しているはずなのに、その考えを大人へとスライドできないんですね。
だから最初は、「もっとこうしてください」「そこは手を出さないでください」と言うべきなのかどうか悩みました。
ひどいことには、「子どもと関わる前に、一度立ち止まって考えてから行動してください」と言ってしまったこともありました。
言ったあとで、すごく失礼なことを言ってしまった、あれは言わなくてもいいことだったと猛省したのを覚えています。
会議などで、それぞれの保育者がどう思っているのか、何に悩んでいるのかなどを話し合えると、その人の子どもの見方や、考え方を知れます。
そして、それを知ると、「ああ、あの人はこういう気持ちでそう動いているんだな」と理解する手助けになります。
そうなると、お互いを尊重しやすくなります。
他の人の考え方、ものの見方を知るため
会議中に、上記の『保育者がお互いを尊重できるようにするため』の内容を話させてもらっていた時のことです。
話の流れで、保育者がそれぞれの子どもにどのような気持ちを持っているのかの話になりました。
その中で、甘えてリュックを持ちたがらないと私が思っている子を、他の保育者は荷物が重いから持ってあげようと思うと言いました。
そして、私が荷物が重いから持ってあげてもいいかなと思っている子を、その保育者は甘えているからがんばって持ってほしいと思っていることが分かりました。
同じ子どもを見ても、保育者によって捉え方が違うと実感した話し合いでした。
このエピソードが出て、だからこそ保育者間でもお互いを尊重して、個々に判断をまかせたほうがいいと確信しました。
なぜなら、一人の子どもに対して保育者の数だけ見方があり、それだけ複眼的に子どもを見られるからです。
そしてたとえば、その子は甘えていると思っている保育者が、その子のリュックを他の保育者が持ってあげているのを見ても、「持たなくてもいいのに」と思うのではなく、それを認められる。
やっぱりそういう保育がしたいと、改めて思いました。
ケンカの見守りかた
とっても詳しく、ありがとうございます。
ところで、ケンカも見守ると言われましたが、やっぱりそこが気になっちゃって・・・
そうでしょう。
他の見守りは受け入れられても、ケンカはちょっと、と言う方もおられます。
保育の中でも、ケンカの見守りが一番こころ揺さぶられる場面です。
それでは、ケンカの時の具体的な見守り方をお話しましょう。
見守る時のこころの持ちよう
いまさら言う必要はないかもしれませんが、決して放置したり、見て見ぬふりをしたりしているわけではありません。
しっかりと見ています。
実際は、じっと見ると、ケンカをしている子どもたちが見られている事に気を取られて、ケンカに集中できないので、視界のはしで見るという感じです。
しかし、神経はしっかりとケンカをしている子どもたちに向けられています。
手が出たり、かみついたりする子の対応
ケンカを見守っていると、子どもたちはそれぞれ自分の意見を主張しあいます。
こうしたケンカに慣れていない子や、年齢の低い子だと、手が出たり、かみついたりすることもあります。
こうした時の対応も各団体によって違いはあるでしょうが、やまぼうしでは基本的に、あとに残るケガになる可能性があるため、かみつきは止めます。
手が出るのは、ある程度見守ります。
しかしこれもケースバイケースで、お互いにたたきあって、わけが分からなくなっていると判断したら止めます。
たたきあっていても、そこから新たな展開が起こりそうな予感がしたら、もう少し様子を見ます。
かみつきも止めますが、本当にかむ気がないように感じたり、かもうとして途中で我慢するのを見たりすると、すぐに止めずに様子をうかがいます。
しかし、そうした場合でも、すぐに止められる位置にいます。
あいだに入る時の心得
このように、あいだに割って入る時もありますが、そうした場合も余計なことは言いません。
そっと体を入れて、かみついたり、たたいたりできないようにするだけです。
またケンカ中に、倒れたら危ないと思う箇所があれば、その場所に黙って立ちます。
いずれも極力、声はかけません。
理由は、ケンカの邪魔をしたくないからです。
大人が声をかけると、ケンカの相手ではなく、大人に対して気持ちを訴えがちです。
やまぼうしでは、ケンカは魂と魂のぶつかり合いととらえています。
ケンカを通して、文字通り、体を張ってコミュニケーションしているのです。
だから、子ども同士の気持ちのぶつかり合いを邪魔したくないのです。
ケンカを終えて
ケンカの終わりはさまざまです。
根負けして、ひとりがどこかへ去っていく時もあるし、二人で大泣きもあるし、保育者に助けを求めにくることもあります。
保育者のそばによってきた子は、もちろん受け入れます。
大事なのは、その子を受け入れすぎないこと。
理由は、相手の子の気持ちも配慮したいからです。
かたいっぽうの子を抱っこしたり、ヨシヨシと慰めたりすると、相手の子は、「なんだ、あいつだけヨシヨシされて。俺だって悲しいんだぞ。これじゃあ俺が悪者みたいだ」と思うかもしれません。
でもその子は、素直に保育者のところへは行けなくて、または、行きたくなくて、ひとりで気持ちを落ち着かせているのかもしれません。
私はそうした子に、「私はあなたを悪者だとは思ってませんよ」「どっちが悪いかなんて判決はしませんよ」というメッセージは届けたいと思っています。
そうしたメッセージを込めて、かたいっぽうの子だけを受け入れすぎないように気をつけています。
だから、そばに来た子には、そっと寄り添ったり、手をつなぐ程度にとどめています。
この時も、私からはなにも言いません。
子どもが話しかけてきた時も、「うん」「そうなんだね」などの最低限の返事だけです。
子どもたちはケンカを通して、さまざまな感情を経験します。
ケンカが終わったあとは、そうした感情を整理する大切な時間だと思っています。
そうした時に大人がいろいろと話しかけるのは、野暮というものです。
だから、静かに子どもたちの話を聞くだけにしています。
お互いを知る
年少さんの頃、激しいケンカをくりかえす二人がいました。
一度始まれば取っ組み合いで、お互い一歩も引かなくて。
こちらも「この子たちのケンカは、いつまで続くんだろう・・・」と心配になる事もありました。
それでも、ぐっと我慢して見守り続けました。
そうすると、だんだんとケンカの回数が減ってきました。
おそらく、それぞれがお互いの事をよく理解するようになってきたのだと思います。
当たり前ですが、友達も他人です。
ケンカを繰り返すことで、まさしく体と体をぶつけあわせて、他人との距離の取り方、他人を尊重するという事を、身をもって学んできたのでしょう。
子どもの本音
上記の激しいケンカをしていた子が言っていました。
「できればケンカはしたくないんだ」
これが本音ですね。
普通に考えると、当たり前なんです。
一度始まったら、全精力をかけて戦わないといけない。
ケンカをしている当事者が一番疲れるんです。
沈黙が続いて、私が「気まずいなぁ」と思っている以上に、ケンカをしている子どもたちは、この現状を打破したいと考えているんです。
だから、ケンカを避けるようになっていくんですね。
それぞれの友達の怒るポイントや、許容範囲などをケンカを繰り返して学んでいく。
そして、それをケンカをしないようにするために活用する。
これは、まさに前回の野外保育編で書いた異質な存在との共存と同じ考え方です。
子どもたちはここでも、友達を通して、自分とは違う存在との上手な付き合い方を、体を張って学んでいるのですね。
カーカーカーカー
ふぅ、ごちそうさまでした。
コーヒー、5杯もいただいちゃって。
そう言ってもらえると、助かります。
こんなに話ばかりしにきて、本当は迷惑なんじゃないかと・・・
あああ、ごめんなさい。
いえ、その・・・
あのぉ・・・
いえ、あの、今度また来てください。
今度は自由保育についてお話したいと思いまして。
嬉しい。
ちょうど今度は自由保育について聞きたいと思っていたんです。
それじゃあ、またお願いします。
はい、また来てくださいね。
それじゃあ、今日はこれで。
本日のおさらい
本日のおさらい
- 見守る保育をする理由は、見守った先の子どもが生き生きして見えるから。
- 見守る保育は、子どもたちが自分で決めるのを見守っている。
- 保育者には、うつわの大きさが求められる。
森のようちえんを徹底解説
森のようちえん園長が教える!vol.3 見守る保育って?ケンカも?
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もくじ
注※タイトルを『分かりまくる!vol.3 見守り保育?ケンカ?保育者に求められるもの?そんな疑問を森のようちえん園長が徹底解説』から変更しております。
「見守る保育ってなにをどこまで見守るの?」
「ケンカも見守るの?」
「保育者はなにもしないの?」
どうも、里山保育やまぼうし園長のたける父ちゃんです。
今回のテーマは『見守る保育』
いったい、なにをどう見守るのか?
奥が深い、見守る保育の世界。
その一端でも示せればと思います。
それでは、はじまり、はじまり〜。
フンフフン、フ〜ン♪
たえ子さ、あっ、門口さぁん。
やっぱり今日も・・・
今日もひとりできちゃいました。
それなら、コーヒーでも飲みながらのほうがいいかなぁなんて。
私、コーヒー大好きなんです。
ありがとうございます。
さぁさぁ、座ってください。
今日は『見守る保育』について教えてほしいんですが。
分かりました。
それでは、早速お話しましょう!
見守る保育とはなにか
森のようちえんの保育の特徴のひとつが見守る保育です。
私はこの見守る保育が、一番重要だと考えています。
なぜなら、見守る中で大切にしたい事が、保育で大切にしたい事そのものだからです。
その他の野外保育、自由保育、縦割り保育などは、見守る保育をするのに適しているからするのです。
たとえば前回の野外保育編であげた自然の中で遊ぶ4つのメリットの内の2つ。
この2つができるということは、たとえばケンカ中に、「大声を出しちゃダメ」と言わなくてもいいし、自分たちで距離がとれるので、保育者が子どもを引き離す機会もほぼなくなります。
それだけ、より見守られるのです。
それほど大切な見守る保育。
言葉にするとシンプルですが、実際におこなおうとすると、とても難しいんです。
今回も私の実体験を踏まえて、話していきたいと思います。
注意
あくまで、里山保育やまぼうしとしての考え方です。
森のようちえん全体が同じ意見でないことをご了承ください。
どうして見守るのか
まず、どうして見守るのかと言うと、見守った先の子どもたちが生き生きしているように思えたからです。
前回の野外保育もそうですが、私の場合、全ては直感から始まります。
見守る保育の考えを知った時、こういう保育がしたい!と瞬時に思いました。
だから、まずやってみる。
そして、やっていく中で、見守る保育をする意義を見いだしてきました。
こうした子どもたちの姿を見ると、見守ってよかったなぁと思います。
もちろん、毎回、こんな感動的な姿があるわけではありません。
しかし、そうした時も子どもたちの内面では、こうした象徴的な姿につながるものが芽生え、育っているのかなと思ったりします。
なぜ生き生きして見えるのか
どうして見守ると、子どもたちが生き生きするのか。
私なりに考えてみました。
子どもが生き生きする理由
ひとつずつ見ていきましょう。
自分のちからでやりとげたと本人が感じるから
工作にしろ、泥団子作りにしろ、自分ひとりでできたと感じるから、満足度が違います。
ここでキモなのは、本人がそう感じるということです。
紙を切ってトンボを作っていた時のことです。
年長女子は、イメージ通りのトンボが切れなくて、大泣きしながらも何度も挑戦していました。
しばらく見守っていましたが、見かねた保育者が「一緒にやろうか?」と声をかけました。
しかし、彼女は「自分でやる!」と手伝いを拒否。
その後も、切り続けて、ようやく納得のいくトンボが完成しました。
私から見ると、実際のトンボとは少し違うように思えましたが、本人はやりとげた喜びでいっぱいといった感じでした。
一方、年少彼は保育者がつくったトンボに色を塗って、大満足。
表裏リバーシブルで色を塗ったのがお気に入りらしく、大切に持って帰りました。
以上のように、何に満足するのか、どこで納得するのかは本人次第。
そして、その度合は本人にしか決められません。
だから、周りがとやかく言うのではなく、本人が納得できるまで見守るのがいいと思うのです。
感情を出し切るから
喜びや楽しみの感情は、いくら出しても止められることはめったにありません。
しかし、怒りや悲しみの感情は止められがちです。
怒っていても泣いていても、「どうしたの?」と声をかけられます。
もちろんそうした優しさにふれることが悪いわけではありません。
でも、負の感情を思いっきり発散できる場があってもいいのではないでしょうか。
やまぼうしでは、ケンカも見守ります。
怒りの感情を出し切った子どもたちは、さっきまでケンカしていたのがウソのように、すぐに一緒に遊び始めます。
最後までケンカをやり通して、感情を出し切るからでしょう。
経験から言うと、こうして見守ったケンカは必ず仲直りがセットになっています。
しかも、あっという間の仲直りです。
さらに、二人の絆が深まったようにも感じます。
逆に、中途半端に止められたケンカは後を引きます。
まだ子どもたちの中に消化されないものがあるからでしょう。
自分で決めるから
大人が口出ししないということは、子どもたちが自分で決めるということです。
上の2つも、どこで納得するのかを自分で決め、いつケンカを終えるのかを子どもたちが決めています。
泣いて泣いて、感情を発散しつくして、遊びに戻るタイミングも自分で決めます。
つまり、何を見守っているのかと言うと、子どもたちが自分で決めるのを見守っているのです。
そして、なぜ自分で決めるのを見守るのかと言うと、そのほうが、子どもが生き生きしているように思えるからなんですね。
なにをどこまで見守るのか
そうは言っても、見守らない時もあります。
それは以下の二点です。
見守らない場合
安全管理の面から見守らない
たとえば、春から秋にかけて草が生い茂る中に子どもが入っていく。
これを子どもの自主性を重んじる、として見守るのかどうか。
やまぼうしでは見守りません。
理由はマムシにかまれるリスクが非常に高いからです。
安全管理編で詳述しますが、安全管理では、学びのリスクとハザードという考え方があります。
学びのリスクとは
その団体の目的を達成するために必要なリスク。
包丁で指を切る、斜面を滑って擦り傷をおう、など。
子どもたちが自分で決め、自分でやりとげたと思える活動なら、多少の危険があっても見守る。
しかし、危険度が高い場合は下げる対応が必要。
たとえば、月齢が低く、一人で包丁を使わせるにはまだ怖いと思うなら、保育者が補助に入る。
また、危険度が下げられない場合は、その活動自体を終える時もある。
のこぎりを使うが、子どもがよそ見をする、のこぎりを振り上げるなどを繰り返し、声をかけても改善されない場合は、その作業自体を終了する。
ハザードとは
その団体の目的を達成するのに関係のないリスク。
マムシにかまれるという事は、子どもが自分で決め、自分でやりとげたと感じる事とは関係のない、突発的な事故。
ハザードはできる限り排除する。
草むらの中では枝などでマムシがいないか確認する、など危険度を下げるための対応ではなく、草むらには入らないという禁止で、マムシにかまれるリスクを極力排除する。
避けられない場合は、そのフィールドで遊ぶのをやめる選択もある。
やまぼうしでも、川で遊んでいて、小石をどけたらマムシがいたことがあった。
これは避けきれないハザードと判断し、それ以来その川へは行っていない。
保育者の判断から見守らない
こちらは、また意味合いが違います。
危険だからというのではなく、保育者が口を出す、手助けするなど、介入することを意味します。
日々の中で、どこまで見守るべきなのか判断に悩むことは多々あります。
やまぼうしでは基本的に、それぞれの保育者にその判断をゆだねています。
理由は、一人ひとりの保育者は性格や考え方、ものごとの受け取り方が違うからです。
以下に詳しく見ていきましょう。
見守る側に求められるもの
保育者はただ見ていればいいから楽ではないか、と思う方がいるかもしれません。
しかし、そんなに甘いものではないのです。
私たち保育者に求められるハードルは高く、私などは当然まだまだ未熟者で、そう言うのでさえ、おこがましいと言うレベルです。
では何を求められるのかと言うと、ひとことで言えば、うつわのデカさです。
受け幅の広い、ふところの深い人物が理想像です。
実際、全国フォーラムなどで長年活動されている方にお会いすると、その器の大きさ、人柄に感動することが多々あります。
やまぼうしを始めた頃
たとえば、ケンカを見守っていると、心がざわつきます。
特に年上の子が年下の子に、大人から見れば意地悪だなと思う事をしているのを見ると、「意地悪だなぁ」「助けてあげたいなぁ」「もうやめてあげて」という気持ちが湧いてきます。
やまぼうしを始めた頃の私は、こうした感情が湧いてくると、冷静にはいられなくなっていました。
感情にこころを揺さぶられて、頭では見守りたいと思っているのに、体と口が勝手に動いていました。
そして、あとになって、はたしてあの対応で良かったのだろうかと反省する日々でした。
しかし、そうした経験と反省を繰り返していくと、動揺しにくくなってきます。
感覚がマヒするのではなく、耐性がついてくるといった感じです。
感情は殺さなくていい
しかし、経験を積み、ある程度見守られるようになったとしても、当然そうした感情がなくなるわけではありません。
そして、そうした感情を殺す必要もありません。
見守ろうと思い、自分の感情を受け止め、それでもやっぱりここは介入したいと思えば、介入してもいいのです。
言いたい事があれば言えばいいし、助けてあげたいと思えば助ければいいし、子どもに何かされて嫌だなと思えば「嫌だからやめてほしい」と言えばいいのです。
なぜなら、私たちも保育の場の一員だからです。
個性の尊重
私たちは透明人間ではなく、ひとりの人間として子どもたちの前にいます。
当然ながら感情もあり、意思もあります。
見守るためにそうしたものを押し殺す必要があるのならば、私はそんな窮屈な保育はしたくありません。
子どもたちの自主性を重んじるということは、言い換えれば、それぞれの個性を尊重するということです。
そうした理念を掲げている団体が、保育者の個性を尊重しないのは矛盾しています。
心理学者の河合隼雄さんだったか、ユングだったかは忘れましたが、こんな言葉を覚えています。
“個性的な子どもを育てるには、育てる大人が個性的に生きなければならない”
そのとおりだと思います。
なによりも、感情を殺して息苦しそうに見守る大人と、個性を発揮して楽しそうに過ごしている大人。
どちらが子どもにとっていい影響を与えるかは一目瞭然でしょう。
自分と向き合う
しかし、保育者一人ひとりが自分で判断して見守るという行為は、実際にはとても大変です。
人間はそれぞれ、こころが揺さぶられるポイントがあります。
ひとつではなく、複数あるかもしれません。
ポイントによって、強弱があります。
私自身で言えば、甘えたな子を見ると、こころが揺さぶられてしまいます。
こうした時に、その子に原因があるのではなく、私に原因があると考えます。
それはもしかしたら、私自身の中に甘えたいけど甘えられなかった過去があるのかもしれません。
しかし思い返してみても、私の家庭はどちらかと言えば、家族仲むつまじく、母親にもよく育ててもらったと思いますし、トラウマになるような出来事も思い当たりません。
おそらく、そういうことではなく、いわゆる平和に生きてきた人でも、どんな人でも、そうしたポイントが存在するのだと思います。
それは記憶にも残らない、それ自体は日常のささいなこと、当たり前のことなのでしょうが、どういうわけか心に引っかかり、揺さぶられるポイントになるのだと思います。
実際のプロセス
自分に原因があるならば、それと向き合わなければいけません。
しかし、こうすればこうなるという取り扱い説明書があるわけではありません。
だから抽象的な言葉になってしまいますが、いちおうの手順を示してみます。
自分と向き合うには
ほぼほぼ参考にならないと思いますが、実際にこんな感じなのです。
私が一番苦しかったのは、やまぼうしを始めた頃、自分の長女に対してでした。
我が子の半分は私のDNAだからか、自分の嫌な部分、弱い部分が重なって見えるらしく、揺さぶられ方が半端なかったです。
必要以上にイライラしてしまったり、見守られなかったり。
なんとかしようと思うけれど、どうしたらいいのかわからない。
それはもう泥沼にはまったのをひたすらにもがいて抜け出そうとする感じでした。
何回も何回もこころを揺さぶられて、反省して、揺さぶられて。
そうしているうちに、いつの間にか前より揺さぶられていない自分に気づくのです。
少し客観的に我が子と自分の感情を見られるようになっているといった感じでしょうか。
先の見えない、つらい苦しい作業でした。
しかしこの作業を通して、自分を知っていく事で、見守るための精神力が鍛えられ、見守る保育の質が向上するのだと思います。
チームとして
保育者がそれぞれの判断で子どもたちと関わるからこそ、保育者間での話し合いが大切になってきます。
話し合う目的は以下の三点です。
話し合う目的
大まかな共通認識を得るため
それぞれの保育者が自分で判断して保育すると言っても、100%納得して、こうだ!と決定できるものではありません。
また、そのように自信満々なのも、自己満足におちいりそうです。
日々の保育の中で、悩むことなど山ほどあります。
そうした悩みを保育者間で話し合うことで、さまざまな意見が出て、「それじゃあ、そういう時はこうしてみよう」という共通認識ができます。
保育に客観的な絶対的正解はないと思っています。
できることは、こうしてお互いの意見を出しあって、すり合わせて、着地点を見つけることです。
そして共通認識をベースに、個々人で保育していく。
その実践から出た意見や疑問を、また話し合うことで、共通認識の精度がより上がっていくのです。
保育者同士がお互いを尊重できるようにするため
個々人で判断して保育をしていると、他の保育者の関わり方を見て、自分だったらこうするのにな、と気持ちがザワつくことがあります。
これも実は見守る保育のひとつなんです。
ザワつくのは、その保育者の関わり方に問題があるのではなく、自分の中に原因がある。
こう書くと、もう上記の『自分と向き合う』と同じですね。
実践できているかは別にして、子どもを尊重して見守る、と頭では理解しているはずなのに、その考えを大人へとスライドできないんですね。
だから最初は、「もっとこうしてください」「そこは手を出さないでください」と言うべきなのかどうか悩みました。
ひどいことには、「子どもと関わる前に、一度立ち止まって考えてから行動してください」と言ってしまったこともありました。
言ったあとで、すごく失礼なことを言ってしまった、あれは言わなくてもいいことだったと猛省したのを覚えています。
会議などで、それぞれの保育者がどう思っているのか、何に悩んでいるのかなどを話し合えると、その人の子どもの見方や、考え方を知れます。
そして、それを知ると、「ああ、あの人はこういう気持ちでそう動いているんだな」と理解する手助けになります。
そうなると、お互いを尊重しやすくなります。
他の人の考え方、ものの見方を知るため
会議中に、上記の『保育者がお互いを尊重できるようにするため』の内容を話させてもらっていた時のことです。
話の流れで、保育者がそれぞれの子どもにどのような気持ちを持っているのかの話になりました。
その中で、甘えてリュックを持ちたがらないと私が思っている子を、他の保育者は荷物が重いから持ってあげようと思うと言いました。
そして、私が荷物が重いから持ってあげてもいいかなと思っている子を、その保育者は甘えているからがんばって持ってほしいと思っていることが分かりました。
同じ子どもを見ても、保育者によって捉え方が違うと実感した話し合いでした。
このエピソードが出て、だからこそ保育者間でもお互いを尊重して、個々に判断をまかせたほうがいいと確信しました。
なぜなら、一人の子どもに対して保育者の数だけ見方があり、それだけ複眼的に子どもを見られるからです。
そしてたとえば、その子は甘えていると思っている保育者が、その子のリュックを他の保育者が持ってあげているのを見ても、「持たなくてもいいのに」と思うのではなく、それを認められる。
やっぱりそういう保育がしたいと、改めて思いました。
ケンカの見守りかた
ところで、ケンカも見守ると言われましたが、やっぱりそこが気になっちゃって・・・
他の見守りは受け入れられても、ケンカはちょっと、と言う方もおられます。
保育の中でも、ケンカの見守りが一番こころ揺さぶられる場面です。
それでは、ケンカの時の具体的な見守り方をお話しましょう。
見守る時のこころの持ちよう
いまさら言う必要はないかもしれませんが、決して放置したり、見て見ぬふりをしたりしているわけではありません。
しっかりと見ています。
実際は、じっと見ると、ケンカをしている子どもたちが見られている事に気を取られて、ケンカに集中できないので、視界のはしで見るという感じです。
しかし、神経はしっかりとケンカをしている子どもたちに向けられています。
手が出たり、かみついたりする子の対応
ケンカを見守っていると、子どもたちはそれぞれ自分の意見を主張しあいます。
こうしたケンカに慣れていない子や、年齢の低い子だと、手が出たり、かみついたりすることもあります。
こうした時の対応も各団体によって違いはあるでしょうが、やまぼうしでは基本的に、あとに残るケガになる可能性があるため、かみつきは止めます。
手が出るのは、ある程度見守ります。
しかしこれもケースバイケースで、お互いにたたきあって、わけが分からなくなっていると判断したら止めます。
たたきあっていても、そこから新たな展開が起こりそうな予感がしたら、もう少し様子を見ます。
かみつきも止めますが、本当にかむ気がないように感じたり、かもうとして途中で我慢するのを見たりすると、すぐに止めずに様子をうかがいます。
しかし、そうした場合でも、すぐに止められる位置にいます。
あいだに入る時の心得
このように、あいだに割って入る時もありますが、そうした場合も余計なことは言いません。
そっと体を入れて、かみついたり、たたいたりできないようにするだけです。
またケンカ中に、倒れたら危ないと思う箇所があれば、その場所に黙って立ちます。
いずれも極力、声はかけません。
理由は、ケンカの邪魔をしたくないからです。
大人が声をかけると、ケンカの相手ではなく、大人に対して気持ちを訴えがちです。
やまぼうしでは、ケンカは魂と魂のぶつかり合いととらえています。
ケンカを通して、文字通り、体を張ってコミュニケーションしているのです。
だから、子ども同士の気持ちのぶつかり合いを邪魔したくないのです。
ケンカを終えて
ケンカの終わりはさまざまです。
根負けして、ひとりがどこかへ去っていく時もあるし、二人で大泣きもあるし、保育者に助けを求めにくることもあります。
保育者のそばによってきた子は、もちろん受け入れます。
大事なのは、その子を受け入れすぎないこと。
理由は、相手の子の気持ちも配慮したいからです。
かたいっぽうの子を抱っこしたり、ヨシヨシと慰めたりすると、相手の子は、「なんだ、あいつだけヨシヨシされて。俺だって悲しいんだぞ。これじゃあ俺が悪者みたいだ」と思うかもしれません。
でもその子は、素直に保育者のところへは行けなくて、または、行きたくなくて、ひとりで気持ちを落ち着かせているのかもしれません。
私はそうした子に、「私はあなたを悪者だとは思ってませんよ」「どっちが悪いかなんて判決はしませんよ」というメッセージは届けたいと思っています。
そうしたメッセージを込めて、かたいっぽうの子だけを受け入れすぎないように気をつけています。
だから、そばに来た子には、そっと寄り添ったり、手をつなぐ程度にとどめています。
この時も、私からはなにも言いません。
子どもが話しかけてきた時も、「うん」「そうなんだね」などの最低限の返事だけです。
子どもたちはケンカを通して、さまざまな感情を経験します。
ケンカが終わったあとは、そうした感情を整理する大切な時間だと思っています。
そうした時に大人がいろいろと話しかけるのは、野暮というものです。
だから、静かに子どもたちの話を聞くだけにしています。
お互いを知る
年少さんの頃、激しいケンカをくりかえす二人がいました。
一度始まれば取っ組み合いで、お互い一歩も引かなくて。
こちらも「この子たちのケンカは、いつまで続くんだろう・・・」と心配になる事もありました。
それでも、ぐっと我慢して見守り続けました。
そうすると、だんだんとケンカの回数が減ってきました。
おそらく、それぞれがお互いの事をよく理解するようになってきたのだと思います。
当たり前ですが、友達も他人です。
ケンカを繰り返すことで、まさしく体と体をぶつけあわせて、他人との距離の取り方、他人を尊重するという事を、身をもって学んできたのでしょう。
子どもの本音
上記の激しいケンカをしていた子が言っていました。
「できればケンカはしたくないんだ」
これが本音ですね。
普通に考えると、当たり前なんです。
一度始まったら、全精力をかけて戦わないといけない。
ケンカをしている当事者が一番疲れるんです。
沈黙が続いて、私が「気まずいなぁ」と思っている以上に、ケンカをしている子どもたちは、この現状を打破したいと考えているんです。
だから、ケンカを避けるようになっていくんですね。
それぞれの友達の怒るポイントや、許容範囲などをケンカを繰り返して学んでいく。
そして、それをケンカをしないようにするために活用する。
これは、まさに前回の野外保育編で書いた異質な存在との共存と同じ考え方です。
子どもたちはここでも、友達を通して、自分とは違う存在との上手な付き合い方を、体を張って学んでいるのですね。
カーカーカーカー
コーヒー、5杯もいただいちゃって。
私も楽しかったです。
こんなに話ばかりしにきて、本当は迷惑なんじゃないかと・・・
いえ、その・・・
あのぉ・・・
今度は自由保育についてお話したいと思いまして。
ちょうど今度は自由保育について聞きたいと思っていたんです。
それじゃあ、またお願いします。
それじゃあ、今日はこれで。
本日のおさらい
本日のおさらい
次回予告
うほほ〜い、みんな、楽しかった?
次のお話はね、たける父ちゃんの元気がなくなっちゃうの。
およよ、何かあったのかな。
ガッちゃん、なにか知らない?
次回、
『ソワソワドキドキ!気になるあの子』『森のようちえん園長が徹底解説vol.4 自由保育編』ぜったい見てちょ。
ばいちゃ。
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